【映画で延命】踊り続ける私たち:「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」

 ちゃんとした人間ではないので、すぐに死にたくなります。

 死にたくなることは当たり前で、頑張って死にたさをごまかしたりして延命しています。映画もその一つで、死にたい気持ちを映画で和らげている。

 Netfixって、映画がたまに入れ替わるというか、配信停止になったり再開したりで、一喜一憂することもしばしば。続編の前にファンタビ見ようとしたら消えてたしね…。

 でも、たまに見たかった映画が追加されているとテンションが上がる。『セント・オブ・ウーマン』が入ってたのは、まったくの予想外で、さっそく見ました。何度見たかわからないし、一部のシーンはそれ以上に何度見たことか!

 

 【あらすじ】

 名門校の給費生チャーリーは、感謝祭の期間中、あるアルバイトをする。それは、盲目の退役軍人の世話をすること。会ってみるとその軍人フランクは気難しく、心を閉ざしている。フランクに密かな計画があった。それは彼の目的のためにニューヨークへ行くこと。チャーリーはフランクの密航に付き合うことになる。

 一方で、チャーリーは学校で起きたトラブルに巻き込まれていた。ある夜、彼は同級生が校長の新車にいたずらを仕掛ける現場を目撃してしまう。校長はチャーリーに、犯人の証言と引き換えにハーバードへの推薦を持ちかけるが、それは犯人である同級生が退学処分になることをも意味していた。そして取引を断ったら、その時はチャーリーが退学になるであろうことも。

 

 フランクは事故で盲目となって退役した軍人。家族とも疎遠になっているので、サンクスギビングにいきなり実家に押し掛けるシーンはさながら葬式のよう。厳しさを伴う言動と、威嚇のように張り上げる大声で、「うっ」となる。でも、姪の言うように「本当はいい人」でユーモアのある人物であることが、映画の中でだんだんと判明していきます。チャーリーは貧しくも絵にかいたような好青年で、この二人のNY珍道中はハラハラするけれどどこか楽しそう。

 しかし、盲目となり、孤独に生きるフランクにとって、このNYへの旅は片道切符。つまり、死のうとしていた。そのフランクをチャーリーが止める場面は、この映画屈指の名場面だと思います。頑な心の大人と、純朴でまっすぐな青年が出会って、大人が感化される映画はパターンとして多い。そのパターンの中でもこの映画は秀でている。アル・パチーノの名演による部分も大きいけれど、脚本が美しいなぁ、と思う。いいセリフが多い。

 良い映画には必ず名場面がある。個人的に、この映画の場合は3つある。

 1、タンゴのシーン

 2、フランクの自殺未遂のシーン

 3、フランクの援護演説

 

1、タンゴのシーン

何といっても、ガブリエル・アンウォーの美しさ!ナンパ偶然出会ったガブリエル演じる美女・ドナにタンゴを踊ろうと持ち掛けるフランク。でも、ドナは「間違えることが怖い」とためらう。そこで発せられるフランクのセリフが良い。

 No misstakes in the tango, Donna. Not like life.(中略)If you make a mistake, get all tangled up, just tango on.

 (タンゴは人生と違って間違わない。(中略)足が絡まっても踊り続ければいい)

 そして、ドナを伴いレストランのホールでタンゴを踊るフランク。ポル・ウナ・カベサの音楽も粋で素敵だし、何より、踊る二人がほほえましい。

 

2、フランクの自殺未遂

 自暴自棄も沸点を超え、自殺を企図したフランク。チャーリーが止めに入るのですが、チャーリーはフランク自身の言葉を引用して止めるのです。そう、タンゴのシーンの言葉で。この言い争いの場面、言葉を全部引用したいくらい。。

 「俺に人生があると!?真っ暗闇だ!!」と叫ぶフランク。本当は死にたくないけれど、生きる理由がないのだ、と。「どうやって生きていったらいい?」と途方に暮れるフランクに、チャーリーが投げかけるセリフが

 If you're tangled up, just tango on.(足が絡まっても踊り続けて)

なのです。フランクは、タンゴと人生を重ね合わせなかったけれど、チャーリーは、重ね合わせている。この脚本が告げているのは、タンゴのコツというか、肝要を「続けること」だと言ったフランクは、実は人生の肝要もつかんでいたのだ、ということだと思う。気付いていないだけで。「タンゴは踊り続ければ間違いではない」っていうのは、人生についての比喩だ。

 

3、フランクの援護演説

 チャーリーはフランクの旅の共を終えると、学校に戻り懲罰委員会にかけられます。疑似的な裁判のようなやつ。

 チャーリーは孤立無援で戦うのか、と思いきや、先ほど別れたはずのフランクがやってきて、彼の横に座ります。そして、朗々と、良く響く大声で演説を始めるのです。

 映画にはなにがしかのテーマがあるけれど、この映画のテーマは人生なんだと思う。彼ら二人が経験する旅も人生になぞらえられるし、フランクの歩んだ軍人としての栄光と挫折と、演説での言葉には人生において忘れてはならないことが示唆されている。

 チャーリーは校長の取引に応じない、つまり退学を余儀なくされるのですが、フランクは演説で以てチャーリーの援護をし、さらに、未来の指導者を育成するはずの教育機関が腐っていることを喝破するのです。

 フランクは、チャーリーが卑怯な取引に応じない高潔さと勇気を讃え、さらにこう続けます。

 Now I have come to my the crossroads in my life. I always knew what the right path was. Without exception, I knew, but i never took it. You know why? It was too damn hard.

 (人生の岐路に立たされた時、正しい道はいつもわかりきっていた。でも選ばなかった。それがとても厳しいものだとわかっていたから)

 少々、耳が痛い言葉ですね。チャーリーは不正という間違った道を行かず、正々堂々と生きることを選びました。退学になるというのに。

 長台詞を朗々と語るアル・パチーノの演技がすさまじいので、ぜひ見ていただきたい場面。

 

 この映画ではタンゴと人生をなぞらえる、つまり踊ることを人生に重ねているけれど、これは英語圏でよくあるたとえなんだろか、と考える。

 Queen&デヴィッド・ボウイの「under pressure」でも

 This is our last dance

 This is ourselves under pressure 

って出てきますが、このdanceは人生の比喩です。

 Oasisの「The Masterplan」でもサビはこう始まります。

 And then dance if you want to dance

 Plese brother take a chance

と。この踊るも、実際に何かのダンスをするのではなく、生きることの実感の話をしていると思います。やるべき時にやれ、と。

 

 映画で延命と名付けたけれど、こういう風に映画や音楽に、足が絡もうが、何があろうが、踊れ(生きろ)と背中を押してもらうことで、今日をやり過ごしているのだなぁ。

 踊りましょう、今日も明日も明後日も。足が絡まっても踊り続ければmistakeではないのです。

 

魔法界に行ったと思ったら、踊るマハラジャしてた話

 田舎者なので、人間がひとところに集まっているのを見ると、変に緊張するんですよね。

 公開初日の『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』を見に行って参りました。この日を待ってた!2年越しに新作が見れるんだもの。前作は、吹替、字幕、吹替、、、ってリピーターになった。ハリポタは未履修なので、ハマった理由はわからないのだけれど、ジュブナイル的な雰囲気よりもアダルトで、何より1920年代を模した美術が美しかった。(同時期にローグ・ワンにもだだハマりして、ドニー・イェンのために映画館に通った)

 

 さあ、チケット買うぞ、とネット予約画面を開いたら、ん?『ムトゥ 踊るマハラジャ』!!!!!!???????なぜ!?買うけど!!!と、いう勢いで、2本立て続けに見てまいりました。ありがとう、新宿ピカデリー

 以下、がっつり本編に触れる話です。

 

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生

 私、黒い魔法使い、ってグリンデルバルドだと思ってたのですが、どうやらクリーデンス君にかかってる言葉のように感じました。原題が『the CRIMES of GRINDELWALD』で、邦題が『黒い魔法使いの誕生』にした理由って、グリンデルバルドの罪として導き出されるものの一つが『黒い魔法使い』の誕生だからかと思います。

 今回は、アメリカではなく欧州がメインではあるものの、前作のキャラはちゃんと登場して安心。クイニーがジェイコブ連れてパリに来るくだりはクイニーの押しにちょっとびっくりしたけれど。

 グリンデルバルドは罪を地上に振りまく。人々を扇動して彼の優勢思想に基づいて世界を作り替える政治の部分もそうだけど、感化されたり、巻き込まれる人の心に影を落とすことも罪だと思う。最も強烈なのはクイニーの転向ではないだろうか。彼女と雨と傘、って印象的に扱われているけど、これは隠喩だと思う。雨のように人の心が無差別に聞こえてしまう彼女と、そこから身を守るための傘。その傘ですら凌ぎようのない「雨」と「人の心の声」が降り注いで傘を閉じてしまったとき、彼女は暗部に魅入られる。

 話のまとまりとしては、前作の方が起承転結がはっきりしていてよかったけれど、伏線をちりばめるためのつくりのように思います。

 それにしても、悪役が魅力的であり、フィクションで描かれる理由の根幹っ

て、そこに人間の欲望が多分に含まれているからだよなぁ。悪役の魅力度が高いほど、欲望や現実の比喩としての純度が高まる気がする。

 

・『ムトゥ 踊るマハラジャ

 ニュートが煮え切らなくても、たとえ「サラマンダーのような瞳」という言葉でも、それが誉め言葉と気付けるティナ、さすが「与える側」にある人、、、と思いながら、『ムトゥ 踊るマハラジャ』を見る。166分である。

 最初はちょっと「なにこいつ…」と思いながらも、だんだん惹かれ合っていく男女、そして主従の確執からの、衝撃の出自の発覚。これ、見たことある。『バーフバリ』こんなんじゃなかったっけ。

 初めて見たのだけど、基本的にずっと笑えるのが良い。そして、ムトゥの万能無敵っぷりは、小バーフバリである。(むしろバーフバリがムトゥ的なのだけど)時代物のインド映画に対する知識が浅すぎるので、なんでも『バーフバリ』にしてしまいそうになる…。

 おそらく、出自というものがかなり強固に人生を支配するから、使用人階級として生きていたけど実は…というどんでん返しのカタルシスが観客に求められているのだと思う。そして、一番尊敬をあつめるのは、富豪でも権力者でもなく、それらを超越した賢者である。宗教観というか、彼らの社会的観念の反映がこの構図っぽいな、と思いながらムトゥの実の父・謎の賢者の正体に納得する。いや、話の後半から意味ありげに出てきたから、なんなんだと。

 基本的に、父と子の物語で、美徳は血を介して受け継がれるというなんとも保守的なストーリーで、女や娘は恋する相手か賢母かでしかない。『バーフバリ』では一緒に戦うけど、あんまり登場人物に生き方の自由がない。でも、面白く、軽快に見れてしまうのは、ガス抜きを映画自体がやっているからなのかな。そういう意味では、『ムトゥ』に出てくる「芝居」の要素は社会批評的かも。映画というハコの現実での役割(人々のガス抜き)を示唆するというか。

 本編関係ないけど、見終わったあと拍手が沸いたのはなんだかうれしかった。

 

 冬になると見たい映画が増えてくるのはなぜなんだろう。

 ファンタビの続編はやく作ってください、首が伸びてしまう。

 

走ってみろよ、大丈夫だから/『Catch up, latency』考察

 封入特典のチケット特別先行は、残念ながらご用意されませんでした。

 でもでもでも、今回も今回とてUNISON SQUARE GARDENは素晴らしい。特典の音源もボリューム感あってお得だな。

 さて、『Catch up, latency』の考察を試みたいと思います。

 まず、英訳すると、

 ・Catch up=追いつく、追い上げる、など

 ・latency=(IT用語として)待ち時間、呼び出し時間、潜在、潜伏、とか

 となります。レイテンシーは名詞なんですけど、「待ち時間」「潜在」に「追いつく」・・・?今回も直訳では意味は取りずらい。

 このシングルに収録されてる3曲を貫いて解釈するなら、「走ってみろよ、大丈夫だから」なのかなぁ、と思う。以下、自己解釈です。

 

1、表題曲『Catch up,latency』

 「風が強く吹いている」の主題歌にもなっているので、やはりどこか走るイメージが浮かぶ一曲。そして、歌の中にスタートとゴールが隠されている。

  拝啓、わかってるよ 純粋さは隠すだけ損だ

  敬具、結んでくれ 僕たちが正しくなくても

 拝啓で始まり、敬具で結ばれる形式、手紙ですね。

 1番の前半の歌詞を見てみると、なんだかもどかしそう。心と体がバラバラなような、願望と自分の今が合致していないような。考えて、惑って、ぐるぐるしている「主人公」の姿が見える。そのズレが、そこにいる「主人公」が過ごす時間が「レイテンシー」?

 でも、

   満を持す絶好のカウントダウン

 この場所は、実は満を持したわけではなく、「主人公」がここぞと決めたスタートのカウントダウンだろう。

 「あまりにも不明瞭で不確実で でもたまんない」。 走り出した「主人公」の興奮がうかがえる。

 2番は走り出した「主人公」像と思われる。腹が決まって、地図や向かうべき方向を手に入れた。「太陽よ僕たちを導き出せ」「北極星」。太陽は出ている位置で方角を知ることが出来るし、北極星は船乗りたちの目印として使われてきた歴史がある。けれど、未完成で未熟なままなので、道行は安全で楽勝ではない(「エマージェンシー」)。

 ヘクトパスカルのくだりは、高い方から低い方へ流れてしまう自然の摂理にすら自分の決定権を発揮したい、という意思の表明かな。

 

 まとめると、自分の中に迷いの時間があっても、未完成で未成熟なままでも走り出せば、「拝啓」から「敬具」へたどり着くように、どこかに行けるんだよ、何かの背中に追いつくよってことでしょうか。それは、理想かもしれないし、具体的な誰かや目標物かもしれない。その迷いの時間にいる君を、ちょっと押し出してくれる。

  風なんかは吹いてないのに

 風はどこからか吹いてくるのを待つこともできるけど、自分で動いたらそれに付随して風が発生するもんですよね。

 そして、カップリングの二曲がよくできていて、「Catch up, latency」に並走するような曲になっている。

 

2、「たらればわたがし」

 走り出した道が、いつだって快適とは限らない。

 でも、ユニゾンが歌うのは、「道」はきっと続くし、そこを歩く君は大丈夫だということ。「たらればわたがし」の主人公は、だいぶ不安が積み重なっているみたい。1曲目で勢いよく走りだしたはいいけど…。

 出会う人が良い人ばかりではない。自分の身には理不尽が降りかかるかもしれない。でも、ユニゾンは道行く人を否定しない。「君のとらえ方次第」ってまとめてしまえばそれまでなのかもしれないけど、進んでみれば必ずどこかにたどり着くのだ、と諭す。「違った」ら、また歩くだけのこと。

 綿菓子は、体積はあるけど重さはない。つまり、お供にするには苦労はないけど、実態はきちんとある。出会ったすべてを重く背負い込まずに、連れて行こうよ、わたがしに変えて。そういう感じかな。

 

3、「ここで会ったが獣道」

 歩いていたら熊に出くわした。逃げるにしても、死んだふりするにしても、腹くくんなきゃしかたない。

 穏やかに歩くだけじゃなくて、叫んだり、壁を叩いてみたり、見栄を張ってみたり、気合入れてみたり、そんなことが必要になる日だってある。

 

  ぴかぴか光ったメダルなんか もらうけどインテリア

 

 歌詞全体にケレン味というか、斜に構えた雰囲気が漂う3曲目。インテリアやメダルは、実際なんの役に立つっていうんだろう?名声や称賛を閉じ込めたまま動かない置物。褒められることは悪くないし、評価されることは大切だけれど、それがすべてになってしまわないように旅路を続けることを歌っているのではないだろうか。

 本気も、嘘も、はったりも、強がりも、人生を一言でなんて片づけられないし、表にでないものもたくさんある(「魂ののろしさえ示し合わせぬまま」)。気が合ったなら、一緒に行けばいいだけのこと。道行の保証はできないし、腹をくくる場面もあるだろうけど。

 ユニゾンに出会って、ユニゾンの曲が好きで、追いかけたいと思う。そう思っていられるうちは、一緒に行きませんか?っていう、ユニゾンファン(というか、何かのファンである人たち)へ向けたメッセージとしても読める。

 

 ロックバンドは正しさを保証してくれないけれど、冷徹に見放すこともなさそうだ。私は、聞き手の道=人生を全面的に肯定し、ともにあることを想起させるシングルが、『Catch up,latency』だと受け止めた。なんとかなるよ、っていうのはタダだし、そういう意味ではその言葉を言う誰しもが無責任になり得るんだけど、ユニゾンも何とかなるように走ってるみたいだし、私は次のシングルも買うからね!

 

 

 

UNISON SQUARE GARDENは”日常”を忘れない/「instant EGOIST」と「23:25」から見る日常へのまなざし

 Allyと申します。

 音楽も映画も小説も、物語性のあるものとか言葉が大好き。

 そんな私ですが、UNISON SQUARE GARDENはもはや敬愛の域にあります。メロディが良い、曲が良い、いろいろあるけれど、彼らの価値観というかスタンスに惚れ込んでいる。

 ユニゾンの初ライブは、Cather in the Spyでした。音源を聴いてハマった「23:25」が聴けたら最高だなぁ・・・って思っていたら本当にやってくれて、その時の感激は言葉にできないものでした。

 音楽を聴きに来たはずなのに、音も時間も置き去りにして、ライトに照らされる3人の姿が焼き付いて離れなくなった。それくらいに。

 

 前置きが長いのは、文学野郎だからなので、ここから本題。

 UNISON SQUARE GARDENは、”日常”を忘れないバンドだと思う。

 それは、彼らを含めた我々全員の日常。この点について、「23:25」と「instant EGOIST」から整理したいと思う。長いけど読んでくれたらうれしい。

  1. 1日の終わりと、今日の夢/23:25
  2. 日常生活と音楽の関係/instant EGOIST
  3. ロックバンドは優しい/「ロックバンドは正しくない」

1.1日の終わりと、今日の夢/23:25

 曲名の由来そのものはさておき、テキスト(歌詞)から考える。「23:25」をどう読む?調べたところによると23時25分らしい。つまり夜、日付をまたぐ35分前。「お天気リポーター偶像にとん挫した」って歌詞もあるし、深夜のニュース番組を見ている様子も想像できる。

 1番も2番もサビまでは、日常の不透明さ、理不尽さ、そういうものに振り回されている様子が描かれる。でも、サビ前で

  彩られては花盛り 少しあっては雨ふらし

  続いてんだよ わかんねぇかな

 と、織り込む。ここで、日常は晴れの日もあれば雨の日もあるんだよ、と諭している。

 サビの歌詞をみると、出来事の整合性がないこと、夢想的なことを書いていること、そして「あさきゆめみし」から、夢の世界であることを思わせる。

 眠りにつき、今日も明日も「帰ろう世界へ」。世界=日常生活なのかな。夢の世界、とも解釈できるけれど、ユニゾン的には現実のルーティンへ戻ることだと思う。

 でも、突き放すことなく、眠りの世界で回復し、いろいろあるよな、頑張ろうぜ、って言ってくれているんじゃないかな。

 

2.日常生活と音楽の関係/instant EGOIST

 ユニゾンは、「ロックだけ聴いてりゃいいんだよ」って言わない。生活ってものがあるって知っている。仕事行って、いいことも悪いこともあって、家事をして、頑張る局面はたくさんある。ルーチンワーカーの日常を皮肉ってみたのが「天国と地獄」なら、救いの一手は「instant EGOIST」だ。

  窮屈な電車に押しつぶされるのは本当に衣服だけなのか

 頭が下がる/退屈な街と生きていくルールブック/どいつもこいつもみぎならえ/。労働者…って感じの歌詞が並ぶ。毎日働いている様子が目に浮かぶ歌詞だ。でも、これは風刺の歌じゃなくて救いの歌なのだ。

 ルールブックに沿えない部分を認め、どうにも気持ちが乗らないことは、全部引き受けなくてもいいんだよ、という歌詞が、

  偏屈で不気味なぐらいの風模様 どいつもこいつも右ならえ

  「さあ手を叩こう」?気持ちがどうも乗らないなら

  地蔵さん、そんくらいは、許されて?

 そのあとに続く、首を振るとか、腰を叩くとか、凝り固まった筋肉をほぐしてグーっと伸びてる様が目に浮かびませんか?

 繰り返しでてくる言葉が、「ストップモーション」。

  ストップモーション この時間 そう 君のなすがまま

  忙しい人生の隙間で いやになるたびに 呼び出しボタン押していいから

  せいぜい明日もがんばって!

 「君」つまりこの曲を聴いている「私」。呼び出しボタンは音楽プレーヤーの再生ボタン。この曲が鳴っているあいだは、君の心を解き放てるように音楽がそこにあるのだ、とそういうメッセージかな。

 これだけ周りに人がたくさんいるけれど、イヤフォンをして、音楽で耳をふさいでいる間は君は一人だ。一人でいる大義名分になる。ちょっと「センチメンタルピリオド」にも掠るテーマだな。

 

3.ロックバンドはやさしい/「ロックバンドは正しくない」

 「23:25」のイントロが「instant EGOIST」に隠れていることはファンの良く知るところですが、「23:25」の曲名の由来のヒントがここに隠されている以上に、繋がりがある曲だと思います。

 日常を生きる、鬱屈や、うまくいかないことにぶつかりながらも生きる人への優しいまなざしの歌という意味がある。

 ユニゾンの新譜「Catch up,latency」のCD帯は「ロックバンドは、正しくない」。無理のないやさしさと、できる限りの誠実さで、音楽を挟んで私たちリスナーとユニゾンは向かい合っている。

 正しさを振りかざすことは正しくない。優しくもない。そんなユニゾンのまなざしが、今までの曲にも、今回の新譜にも表れている。

 次は「Catch up ,latency」で、ユニゾンの提示する優しさを書きたいと思う。

 

 これは全世界に向けて書かれた、一個人の感想である。届いてるのかわからないし、しかも長い。でも、読んでくれたらうれしい。ここまで来てくれてありがとう。

音楽が鳴っているから/津村記久子的音楽と人生の話

『一種のドーピングのようなものなのだ。音楽を聴いていないと手も足も出ないときがある。物理的にも、そして数分をただ息をしてやり過ごすだけのことにさえも』

*1

 津村記久子の名著(誰が何と言おうと私は名著だと主張する)に、こんな一文がある。極上のパンチライン。個人的には、この小説にはパンチラインがちりばめられていて、その塩梅が最高に小気味良い。

 音楽を愛する、でも何事にもうまく立ち回れない女子高生の1年間の話だ。音楽を聴くとき、音楽と自分の関係を考えるとき、小説を読むとき、常にこの小説を思い出す。

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 さて、先日、Me First and the Gimme Gimmesのライブに行ってきた。『ミュージック・ブレス・ユー!!』の主人公のアザミは、Blink182、ディセンデンツ、New Found Gloryとか、BAD RELIGIONとか、ジミー・イート・ワールドとかが大好きという設定なので、きっとギミギミズも気に入っただろうな、と思う。この小説が書かれた当時、Blink182は活動休止中だったけど、今は活動再開したし、アザミもきっと喜んでるだろうな。

 ギミギミズのライブ、最高にぶち上がったわ~というより、「とても楽しくて、おだやか」に観れた。心地よかった。その日は仕事があって、なんなら私は仕事がうまくいってなかったので、心がくたくただった。でも、忘れた。ふくらはぎが張って痛いことも、今日も明日も会社員である私のことも、全部忘れて、その時、私はただの本名「私」に還っていた。一瞬、自分の設定を忘れたというか、なんというか。何者かになりたくてなれない、実存的な悩みが霧散するのだ。

 

 もう一個、津村記久子パンチラインを紹介する。アザミの友達のパンクキッズが宣うこのセリフだ。

 『音楽について考えることは、自分の人生について考えることより大事やと思う』

*2

 大学進学を前に言うセリフなのだけれど、これは音楽で現実逃避がしたい人のセリフではない。むしろ、自分の人生に音楽を介在させて、音楽を通じて自分の人生を考えた青年のセリフなのだと思う。人は、自分の人生を考えるとき、「人生」そのものだけを材料には考えられない。この青年は極めて純粋な形で、損得も利害も超えた場所で鳴っている音楽を反響版にして、人生を考えている。

 音楽に求めることが、ただの楽しさでももちろん肯定されるべきものだ。

 でも、私がギミギミズでそぎ落とせるだけの社会的「私」の要素を落として楽しんだこと、「音楽を考えることが人生についてより大事」な彼も、音楽を介して生の形に触れた。そりゃ、仕事の憂さ晴らしにもなったけどさ、音が体を貫いた時にこの瞬間のために生きているとも思ったけどさ、ただそこにある「生」を感じて、思って、魂の祖形を思い出した。

 

『一種のドーピングのようなものなのだ。音楽を聴いていないと手も足も出ないときがある。物理的にも、そして数分をただ息をしてやり過ごすだけのことにさえも』

 音楽を利用して、自分と社会をつなげているとき、このセリフを思い出す。このセリフから受ける感覚は、世界とのネゴシエーションがうまくいく人には伝わりにくいかもしれない。アザミは、何事にもひっかかりながら生きる。社会との調和が時々難しい人だ。彼女と音楽との付き合いを追いかけながら、「私もそうだよ」と、今日も音楽を聴いて、ライブのチケットを予約する。

 

*1:津村記久子『ミュージック・ブレス・ユー!!』より

*2:津村記久子『ミュージック・ブレス・ユー!!』より

Me First and the Gimme Gimmes in SHIBUYA

 11月の月曜の夜です。
 憂鬱な月曜を、(なんなら入居してるビルが消防訓練の日でもありましたよ)ちょっといい感じにしてくれる。アメリカからやってきた、真面目にふざけているおっさん達、、、それがMe First and the Gimme Gimmes!

 ギミギミズはオリジナルもリリースしているけど、カバーバンドという側面が強い。私は特に、ディーバたちの名曲をカバーしたアルバム『Are We Not Men?We Are Diva!』が気に入ってます。Top of the World(カーペンターズ)からの流れが良いから。

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 さて、月曜でも人の多い渋谷ハチ公口を抜けて、道玄坂を上がって、ホテル街の方に折れると、渋谷O-EASTがある。実は初めて行ったので、あそこら辺のライブハウスのどれに入ればいいのかわからず、リーマン風のおじさんに教えてもらった。19時開演に少し遅れたけど、運よく1曲目から聞けた。
 今日は、ゆっくり見るのだ、なんならもう鞄もロッカーに入れなくて良…いや、やっぱ入れるわ。爆音が鳴った瞬間、思い切り楽しめない感覚にいら立ちが芽生えた。結果としては、ロッカーに鞄入れててよかった。

 だって、めっちゃくちゃ楽しかったから。

 フロアは、平日昼の中央線くらいの人混み具合で、モッシュピットは勢いよくぐるんぐるんできるくらい。いっぱいのフロアもいいけど、気ままにノれるこれくらいの混み具合も、ギミギミズのラフさには合ってると思った。
 久しぶりの日本での単独ツアーなので、彼らがカバーした日本語曲ももちろんやってくれた。汗かいて透け乳首をピンで挟もうとするし、ミラーボール降ろして「俺らディーバだし!!」って歌うのもなんだかおもしろい。深刻さはなくて、音楽って楽しむんだよ~肩の力抜いて、こうやるんだって言われてるみたいな気楽さ。
 ひりひりしていて、オーディエンスとけんかする勢いのバンドもいますよね。それはそれでいいけど、成熟した気楽さで繋がれるバンドと観客の関係性も素敵だと思った。形はそれぞれなのだ。自由でいいのだ。

 失敗は、とても会社員っぽい恰好で参戦したので、肩口にワイシャツが引っかかる、そりゃあ引っかかる。あと、お金がないのに、やっぱりTシャツ買って帰ったこと。お金がないけど物販買っちゃうよね、っていう反作用的な自慢とかうぬぼれじゃなくて、やっぱり機会は貴重だから買ってしまう。
 ライブもそうだけど、こんな素晴らしい時間と音とを、何と比べられるっていうんだ?何と引き換えられるっていうんだ?こんなに、体の痛みも、憂さも、疲れも忘れて夢を見られるのに。そのお土産とバンドへの応援として、お金を落としたいんだよ。

 「人の曲をやってるよ(PLAYING OTHER PEOPLE'S MUSIC)」ってシャツを買って、帰宅して即着替えて、こうして感想を書き残している。

 何かに強いコンプレックスや反発は感じさせず、音楽は楽しいし、素晴らしい曲は素晴らしいんだよ、ってギミギミズが言ってるような気がした。誰かの曲のカバーをする、って、愛情と敬意を表す行為なんだと思う。ちょうど伝記映画が公開されているQUEENのフレディがなくなった時も、みんながQUEENを演って、フレディに愛を伝えたみたいに。
 彼らの日本旅行はもう少し続く。彼らに会いに行く方は、とてもいい時間が過ごせると思うよ。あぁ、楽しかった。

"The Breakfast Club"を知っているか?

アメリカ人の友達に「ブレックファスト・クラブ知ってる?」って聞いたら、「知らない人はいないよ、アメリカじゃ」って返ってきた。

アメリカじゃ人口に膾炙しまくった映画、ジョン・ヒューズ監督作「ブレックファスト・クラブ」(1985年、アメリカ)をご存じだろうか。ちなみに、今のところ(2018年10月末)ネットフリックスでいくらでもおかわりできる。
本国では人気を超えて常識というか、知ってて普通なこの映画、筆者はめちゃくちゃ好きだ。好きだから何十回と見た。そして、いい感じに飽きて、それでも好きだ。この間は立川シネマシティで極音上映してましたね。最高でした。

幾層もの伏線が回収される様が面白い?・・・・・違う
登場人物が魅力的?・・・・・それは一理ある
見てる人を飽きさせない展開?・・・・まあ、それも無きにしも非ず

エモい?・・・・・エモいよ!

結局エモい。

【あらすじ】
寒さの残る春先のある日、5人の高校生が懲罰登校を命じられる。集まったのは、「がり勉」、「スポーツバカ」、「お姫様」に「不思議ちゃん」、そして「不良」。日頃はまったく接点のない5人が、図書室に集められ、一日がかりで「じぶんとはなにか」というテーマで作文を書くことを命じられる。おとなしく作文を書くわけもなく…。こっそり図書室を抜け出して冒険したり、マリファナを吸ったり、なんとなく自分のことを話しながら、5人はお互いを知り、認め合っていく。

スクールカースト」という言葉になじみのない80年代に、スクールカーストを提示し、後々の青春映画にも影響を与えている映画だ。2018年でいうと、ドウェイン・ジョンソンの『ジュマンジ』の冒頭なんて、もろに『ブレックファスト・クラブ』ですね。アナ・ケンドリックの『ピッチパーフェクト』でも「最高の映画」としてそのまんま引用されてます。「不良」くんのジョン・ベンダーのガッツポーズのシーンが出てきますね。あのシーンは爽やかで、大変映える。

接点のなかったはずの5人が集まって、涙ながらに語り合い、気持ちを交わすさまは、なんだか甘酸っぱくてとても素敵なのですが、一方でとても切ない。
なんで切ないかって、おそらくこの1日の出来事が直接的に彼らの世界を革命するほどの力は持たないから。人生のうちのたった一瞬の出来事だ、ということが暗示されているからだと思う。でも、それを経験しているかどうかで、人生の細部はきっと変わってくる。きっと、「お姫様」はすぐには人から注目あつめる生活をやめられないし、「不良」の家庭問題と自己肯定感の低さはこれから彼が戦うべきこと。彼らの間に芽生えた友情も恋情も、生まれたての若葉のように頼りない。すぐに寄り添い合うには、時間も経験も足りないでしょう。

これは、一種の願望であり、考察だけど、それでもかれらは、この一日を忘れないだろう。ことあるごとに思い出して、心を寄せる。そんな経験の1日。

大絶賛したいところだけれど、理解できない点もある。

まず、「不思議ちゃん」のアリソンと「スポーツバカ」のアンドリューの恋。彼らは心に抱える問題をぶつけ合い、やがて恋に落ちる。しかし、そのきっかけが少し疑問だ。なにせ、アンドリューがアリソンを意識するのは、「お姫様」がアリソンのゴスっぽいメイクと服をはぎとってからなのだ。アリソンは、「好きな」ゴスっぽい風体のままじゃアンドリューに恋してもらえない。つまり、スクールカーストでいえば、アリソンは下部か欄外なので、階級を変えさせられることを余儀なくされてしまうストーリーなのです。ほかの4人が、自分をさらけ出し、他者の承認を得るのに対して、アリソンだけは、「そのまま」ではいさせてもらえない。この点は疑問が残るし、アリソン役の俳優も、監督に対して抗議したようです。

それから、やはり他者承認が恋愛に帰結してしまう点。「お姫様」は「不良」と、前述のアリソンはアンドリューと恋の兆しが芽生える。残された「がり勉」は?彼だけは一人、自分で自分を肯定する。自己肯定も大切だけれど、他者に自分を認めてもらう作業を映画のなかでやっているのに、結局恋愛か否かの構図が出来てしまうのは、やるせない。自分で自分を褒められる「がり勉」くんは素晴らしいけどね。

現代の映画は、『ブレックファスト・クラブ』が作った枠組みを、リライトする試みを続けている。『ピッチパーフェクト』は、『ブレックファスト・クラブ』同様に様々な背景の登場人物がいるけれど、自分をさらけ出して他者承認を得る。『ブレックファスト・クラブ』を下敷きに、いろんな青春映画を考察することは面白いので、ぜひ本作を見てみてほしい。特に、アメリカ文化に親しみを感じる人は、ピンとくることが多いんじゃないでしょうか!