魔法界に行ったと思ったら、踊るマハラジャしてた話

 田舎者なので、人間がひとところに集まっているのを見ると、変に緊張するんですよね。

 公開初日の『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』を見に行って参りました。この日を待ってた!2年越しに新作が見れるんだもの。前作は、吹替、字幕、吹替、、、ってリピーターになった。ハリポタは未履修なので、ハマった理由はわからないのだけれど、ジュブナイル的な雰囲気よりもアダルトで、何より1920年代を模した美術が美しかった。(同時期にローグ・ワンにもだだハマりして、ドニー・イェンのために映画館に通った)

 

 さあ、チケット買うぞ、とネット予約画面を開いたら、ん?『ムトゥ 踊るマハラジャ』!!!!!!???????なぜ!?買うけど!!!と、いう勢いで、2本立て続けに見てまいりました。ありがとう、新宿ピカデリー

 以下、がっつり本編に触れる話です。

 

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生

 私、黒い魔法使い、ってグリンデルバルドだと思ってたのですが、どうやらクリーデンス君にかかってる言葉のように感じました。原題が『the CRIMES of GRINDELWALD』で、邦題が『黒い魔法使いの誕生』にした理由って、グリンデルバルドの罪として導き出されるものの一つが『黒い魔法使い』の誕生だからかと思います。

 今回は、アメリカではなく欧州がメインではあるものの、前作のキャラはちゃんと登場して安心。クイニーがジェイコブ連れてパリに来るくだりはクイニーの押しにちょっとびっくりしたけれど。

 グリンデルバルドは罪を地上に振りまく。人々を扇動して彼の優勢思想に基づいて世界を作り替える政治の部分もそうだけど、感化されたり、巻き込まれる人の心に影を落とすことも罪だと思う。最も強烈なのはクイニーの転向ではないだろうか。彼女と雨と傘、って印象的に扱われているけど、これは隠喩だと思う。雨のように人の心が無差別に聞こえてしまう彼女と、そこから身を守るための傘。その傘ですら凌ぎようのない「雨」と「人の心の声」が降り注いで傘を閉じてしまったとき、彼女は暗部に魅入られる。

 話のまとまりとしては、前作の方が起承転結がはっきりしていてよかったけれど、伏線をちりばめるためのつくりのように思います。

 それにしても、悪役が魅力的であり、フィクションで描かれる理由の根幹っ

て、そこに人間の欲望が多分に含まれているからだよなぁ。悪役の魅力度が高いほど、欲望や現実の比喩としての純度が高まる気がする。

 

・『ムトゥ 踊るマハラジャ

 ニュートが煮え切らなくても、たとえ「サラマンダーのような瞳」という言葉でも、それが誉め言葉と気付けるティナ、さすが「与える側」にある人、、、と思いながら、『ムトゥ 踊るマハラジャ』を見る。166分である。

 最初はちょっと「なにこいつ…」と思いながらも、だんだん惹かれ合っていく男女、そして主従の確執からの、衝撃の出自の発覚。これ、見たことある。『バーフバリ』こんなんじゃなかったっけ。

 初めて見たのだけど、基本的にずっと笑えるのが良い。そして、ムトゥの万能無敵っぷりは、小バーフバリである。(むしろバーフバリがムトゥ的なのだけど)時代物のインド映画に対する知識が浅すぎるので、なんでも『バーフバリ』にしてしまいそうになる…。

 おそらく、出自というものがかなり強固に人生を支配するから、使用人階級として生きていたけど実は…というどんでん返しのカタルシスが観客に求められているのだと思う。そして、一番尊敬をあつめるのは、富豪でも権力者でもなく、それらを超越した賢者である。宗教観というか、彼らの社会的観念の反映がこの構図っぽいな、と思いながらムトゥの実の父・謎の賢者の正体に納得する。いや、話の後半から意味ありげに出てきたから、なんなんだと。

 基本的に、父と子の物語で、美徳は血を介して受け継がれるというなんとも保守的なストーリーで、女や娘は恋する相手か賢母かでしかない。『バーフバリ』では一緒に戦うけど、あんまり登場人物に生き方の自由がない。でも、面白く、軽快に見れてしまうのは、ガス抜きを映画自体がやっているからなのかな。そういう意味では、『ムトゥ』に出てくる「芝居」の要素は社会批評的かも。映画というハコの現実での役割(人々のガス抜き)を示唆するというか。

 本編関係ないけど、見終わったあと拍手が沸いたのはなんだかうれしかった。

 

 冬になると見たい映画が増えてくるのはなぜなんだろう。

 ファンタビの続編はやく作ってください、首が伸びてしまう。